生活改善のアイデアについて
私は、子供のころ、少年時代からずっと62歳までは、巨人大鵬卵焼き・・・というような心境でした。強いものにあこがれるのが、心が安定するからです。長嶋茂雄さんや王さん、金田さん、張本さんの活躍に胸を躍らせたものです。また、大鵬の連勝にこころがしびれたものです。ところが、現在はどうかというと、野球は、別段、どこの応援をしているわけでもないのです。強いて言えば、負けているチームを応援しているのです。
たとえば、昨日の都市対抗野球大会は、JR東日本対ENEOSでしたが、負けているJR東日本を7回、8回と応援していました。なぜかというと、そのほうが期待が持てて応援のやりがいがあるからです。
でも、何も判官贔屓にこだわっているわけでもないのです。つまり、これが昂じると、先日のオールスターの第一日目のように、巨人の沢村投手がMVPになっても祝福されずにブーイングとなるような珍事が生じてしまっているので、これは、いただけません・・・と思ったからです。これは、もう、巨人ファンでなくてもいやな感じがします。贔屓にしているチームの選手が三振や凡打に打ち取られたからといって、そのうっぷん晴らしをこんなところで、あろうことかあからさまに見せてしまうような醜態が過去60年間のオールスターの歴史であったのでしょうか?。おそらく、無いでしょう。それとも、あまりに貧打線で、投手戦になってしまっていたのが不満だったのでしょうか?それは分かりませんが、本来は、素直に、優秀な成績を修めた選手は賞賛すべきでしょう。
いずれにしても、これは、あくまでも私個人の場合としてお断りしますが、老年になった現在でも、特定の強い球団の応援にばかり力を入れ過ぎるとか、反対に、アンチ巨人とかはありえないです。もう、体力的にも精神的にも根気が続かないような年齢になりかけているのですから贔屓のチームが勝っている日はいいですが、負けてしまうと、気分的に疲れてしまうのです。{/まいった/}(ちょっと大げさな表現ですが、負けたら実際ストレスがたまってしまうのです。)
ですから、還暦以降の好ましい態度は、いつも柔和にしていることです。
そういう意味から言えば、老後の娯楽として望ましいのは、スポーツ観戦や競輪・競馬・パチンコ・麻雀などの勝負事に一喜一憂するような生活ではなくて、ブログの投稿を毎日更新することで、静かな喜びを感じるのが最適だと思います。別に誰もコメントを書いてくれなくてもいいのです。毎日100以上のアクセスと累計のアクセスカウンターが7万を超えている・・・そういうことが静かな喜びの源泉なのです。 {/チョキ/}{/複数ハート/}{/嬉しい/}{/喫茶店/}
標記のことわざは、昭和40年代に流行した言葉です。巨人大鵬は強いものや安定して見ていられるものにあこがれるこの時代の国民の意識の象徴とされています。そういう意味で、現政府が昨今、このお二人に相次いで国民栄誉賞を与えたのですが、今となっては、受賞があまりにも遅すぎたのではないかと思います。もう、時代がどんどん先へ進んでいるので、高齢者が共感することはあっても、若い世代や中年の人には、既にあまり縁が無い存在になってしまっています。
卵焼きは、いつの時代でも物価が安定していて栄養価の高い食品のチャンピオンだから、そういうことわざに組み入れられたそうですので、これは今の時代にも大いに当てはまると言葉だと思います。しかしながら、大鵬自身は、野球などのチームプレーはあまり好きではなかったようで、強く優秀な選手をスカウトが集めて編成して、勝って当たり前の巨人と比較対照されたのでは適わないというようなことを言っておられたそうです。また、相撲は個人プレーであり、自分は人一倍努力して連勝の栄冠を得たのであって、タイプとしては、巨人の代表選手であった長島茂雄巨人名誉監督のような天才肌ではなくて、むしろ野村克也楽天元名誉監督のようなたたき上げの苦労人タイプの人間だと理解してほしいとも言っておられたそうです。
なにはともあれ、大鵬自身の意見ですから、「巨人大鵬卵焼き」というのがそぐわないという意見には私も大賛成です。実際そのとおりで嘘ではないと思います。似て非なるものを一緒くたにして、とにかく国民的人気の高い人物という共通項に乱暴に組み入れてしまうような語呂合わせには、非常に無理があるような「巨人大鵬卵焼き」ということわざだと理解しました。このことわざを、当時は何の疑問も無く私も使っていましたが、今となっては、もう歴史的な事項になっていますから、時代考証してそろそろ今の時代には合わないということで見直さないといけない時期に来ているのではないかと思いました。
裏返して言えば、この21世紀初頭の大多数の日本人にとって、先行き不透明な不安な世の中において、いまさら「巨人大鵬卵焼き」的な高度経済成長期の右肩上がりの世の中の「西洋列強に追いつけ追い越せ」的な、一国一城の国民的人気や雰囲気に乗った日本株式会社的な思考パターンを継承することは、価値観の多様化やグローバル化の進む国際状況の中では、必ずしも一般性・普遍性を持っているとは言えないように感じるということです。
具体に言えば、日本国内だけでの活躍もさることながら、たとえば、野球選手のイチローやダルビッシュ、黒田、藤川など、国際的に人気のある記録達成面でも実績のある天才たちが大リーグに出張して活躍の場を広げている昨今の状況があります。
また、西岡のように、逆に大リーグにいてあまり成績が振るわなかった選手が、阪神タイガースに戻ってきて天才ならぬ千両役者としてチームを大いに盛り上げて活躍する場合もあります。
相撲界に目を移せば、相撲は本来、日本の国技であるにも関わらず、両横綱である白鵬、日馬富士をはじめ外国人力士の目覚しい台頭と活躍には目を見張るものがあります。
また、産業界に目を移せば、ドコモが従来の日本株式会社方式を捨てて、2トップ戦略で韓国サムソンとソニーの機種を優遇して販売していますが、そこで苦戦を強いられているパナソニック、シャープ、NECは生き残りをかけて外国でのスマホの販売に独自の活路を見出そうと奮闘しているのです。
以上のように、昭和時代の日本国内だけの規模で「巨人大鵬卵焼き」といっていた時代は、もう歴史になってしまった感じがしてならないのです。
このあたりの事情について、もう世の中、インターネット全盛なのですから、そろそろこのことに気がついて、一方的に情報を垂れ流しにするテレビを卒業しないと、生き方そのものが受身になるか無責任になる恐れがあるのです。つまり、自分の考えを表明して、自分の言動に責任が持つ生き方ではなく、単なる傍観者になってしまって感情の起伏にもろに依拠するというかコントロールできない人間像が出来上がってしまうのです。だって、卑近な例ですが、国会中継を見ていても、新聞を読んでも、直接自分の給料がすぐに上がるわけでもないことが連日これでもかと報道されると、自分の支持する政党がなくて、政治そのものに興味を失って、結局は棄権する人が続出するのではないでしょうか?洗脳みたいなものです。こうなると、低い投票率でも固い地盤を持っている○△党と×◎党が過半数を制するのは、火を見るより明らかです。つまり、テレビや新聞を無批判に没主体的に見ている人が多ければ多いほど結果としてマスコミによる情報操作に一般民衆が乗る形になって、衆愚政治に堕してしまうわけです。そうならないことを祈るばかりです。
しかし、インターネットのブログやツイッター投稿の場合は違います。基本的に双方向の通信ですから、何らかの反応があるのです。たとえば、アクセス解析ではっきりとどこの市域からどういう機種でアクセスがあったのかが記録されますから、著作者にとっては、これが励みになるのです。中でも、私はプロバイダーの「ぷらら」に加入していますが、そこの運営する「ブローチ」というブログサイトにアカウントを持っていて、毎日欠かさずに投稿を続けていますが、このアクセス回数が毎日、最低でも100は越えています。そういった手ごたえがあるので、いくらでも投稿する意欲が沸いてくるのです。自分の努力次第でどうにでもなるのです。
つまり、もう、残された人生の生き方に180度の違いが生じるのです。これはどういうことかといいますと、、テレビ観戦やサスペンスドラマやクイズ番組などを固唾を飲んで見るような受身的な体験と、インターネットでのブログ発信とは、主体性や双方向性において決定的に質的に差があるということです。つまり、これはもう生き方の問題です。
テレビは、国民の最大の娯楽であり、気晴らしであり、ささやかな庶民の楽しみではありますが、病弱で残り少ない人生を日々大切に過ごさねばならない自分にとっては、生きがいを感じるのはインターネットでの発信しか選択の余地がないのであります。テレビのように情報コントロールされかねない媒体に毎日、無意識に浸るのは、人生でいえば60歳までで卒業しておかないといけません。
テレビを適当に見るのはいいけれど、真剣に見るものではありません。インターネットの双方向通信や直接体験にまじめに真剣に取り組んだほうがいいのです。
まちがっても、たとえばテレビでのプロ野球観戦やサッカーの試合観戦、競馬中継観戦にありがちな「勝って大喜びの大もうけ、負けて大荒れの貧乏くじ」・・・というような、出口の無い精神構造のうっぷんを溜めたままでは、はた迷惑千万な人生の終末を迎えることになるので、それだけは避けたいものだと痛感いたしている次第であります。そうならないためには、テレビ観戦ではなくて、最低でも、野球場やサッカー球場、競馬場へ直接出向いて、観客と一体感を持ったほうが勝敗に関わらずその時間が、主体的に生きた証になるので、より良いと考えます。